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桜井駅跡

 

  足利尊氏が叛旗を翻したことによって、建武の新政はわずか二年半で崩壊しました。 一旦九州へ落ちたが、勢力を回復して東上する尊氏を迎え撃つ評定の席で、楠木正成は尊氏との和平を主張したが聞き入れられず、延元元年(1336)五月兵庫湊川へ出陣しました。 出陣の途中、正成は桜井の宿から十一歳になる嫡子正行を河内に帰すことにし、「今度の合戦は天下の安否がかかっていると思うから、汝の顔を見るのはこれが最後かと思う。 正成が討ち死したなら、天下は必ず尊氏の世になると心得よ。しかしながら命を助からんがために多年の忠烈を失って降人となってはならない。一族郎党の一人でも死に残っているなら金剛山の辺りに立て籠もって戦え。 これが汝の第一の孝行である」と遺訓したと伝えられます。(この桜井の子別れは「太平記」のみにしるされています。

明治天皇御製歌碑

  楠公父子の離別があったとすれば、桜井〜高浜渡し〜樟葉〜高野街道〜河内金剛山のコースから、この地を置いて他にはないといえます。
 太平記卷十六「正成兵庫に下向の事」に記されたこの地は、明治の歌人国文学者 落合直文の「青葉しげれる桜井の 里のあたりの夕まぐれ・・・・」の歌で有名です。 正成が旗を立てかけたと伝えられる「旗立て松」「子別れの松」は、枯れてしまった今も、幹の一部を小屋に保存してあります。また、次のように多くの石碑があります。

建立年 碑文
明治9年(1876) 楠公訣児之処
明治27年(1894) 忠義貫乾坤
大正2年(1913) 楠公父子訣別之処 陸軍大将乃木希典書
大正10年(1921) 桜井駅址
昭和6年 (1931) 子わかれの 松のしつくに袖ぬれて
昔をしのぶさくらゐの里
        (明治天皇御製)
海軍元帥東郷平八郎書
昭和16年(1945) 史跡桜井駅址(楠木正成伝説地)
滅私奉公 公爵近衛文麿書
所在地 大阪府三島郡島本町桜井一丁目