足利尊氏が叛旗を翻したことによって、建武の新政はわずか二年半で崩壊しました。
一旦九州へ落ちたが、勢力を回復して東上する尊氏を迎え撃つ評定の席で、楠木正成は尊氏との和平を主張したが聞き入れられず、延元元年(1336)五月兵庫湊川へ出陣しました。
出陣の途中、正成は桜井の宿から十一歳になる嫡子正行を河内に帰すことにし、「今度の合戦は天下の安否がかかっていると思うから、汝の顔を見るのはこれが最後かと思う。
正成が討ち死したなら、天下は必ず尊氏の世になると心得よ。しかしながら命を助からんがために多年の忠烈を失って降人となってはならない。一族郎党の一人でも死に残っているなら金剛山の辺りに立て籠もって戦え。
これが汝の第一の孝行である」と遺訓したと伝えられます。(この桜井の子別れは「太平記」のみにしるされています。
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