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大山崎と新撰組

 天王山の山中に十七士の墓があります。これは元治元年(1864)に起こった長州が京都へ攻め上った禁門の変のとき、その首謀者であった真木和泉守が、同士十六人と一緒に敗戦の責めを負って自害したところです。

 
このとき長州藩は京都御所付近で会津・薩摩の連合軍と戦って破れ長州へ向かって敗走するのですが、それを追って幕府軍と一緒に新撰組も大山崎へやってきます。長州兵を逃がし後に残った真木和泉たちと、新撰組はここで出会います。このときの情景を永倉新八は後に次のように記しています。

 「矢張二十二日朝(元治元年の)会津新撰組山ア天王山江取掛ける(中略)それより会津新撰組山アの渡し場を先陣後陣と率い渡る、室寺(ママ)天王山へは会津士大将神保内蔵之助、其の組下百人ほど新撰組においては局長近藤勇、副長助勤永倉新八、斉藤一組下四十人ほど、天王山下は副長土方歳三、副長助勤原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、軍事方浅野薫、武田観柳斉、諸士調役山崎丞、島田魁、林信太郎、小荷駄方小関弥四郎、川崎勝司惣勢百五十人、会津兵四百人この兵にて下通りを固める、追々室寺より攻め始め、天王山向かい天王山六丁ほどはなれ水天宮の神主にて牧(ママ)和泉と申すもの、金の烏帽子を頂き錦の下垂れ(ママ)を着し組下二十人計各々鉄砲を持ち一丁ほどまで押し寄せ、敵より声をかけ我は長門宰相の臣牧和泉互いに名乗られて戦いいたさん、我も徳川の旗下の者にて近藤勇と申夫より敵は詩を吟じ勝時(ママ)を揚げ砲発いたし陣小屋へ引退いた、夫より追い討ちする陣小屋に火をかけ火の中へ飛び込み和泉を始め其の他不残立腹を切る、実に敵ながら討死感心なり、天王山に登り会津御旗を持て勝時をあげる(後略)」

  臨場感がひしひしと伝わってきます。真木和泉と大山崎についてはいろいろな話が残っていますがそれはまた稿を改めたいと思います。

                                       
  『新撰組戦場日記』木村幸比古著[PHP研究所]より引用

    会津藩高札      元治元年(1864)
 禁門の変の戦火を逃れて、大山崎住人は各地へ避難した。戦争後、会津藩は高札を掲示して住民に「還往し、焼跡を片付け、農業に従事すること」を促した。縁側の板を使った立札と伝えられる。

大山崎町歴史資料館
『天王山−山麓と街の移りかわり−』
(企画展示目録、2003年)より