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大山崎と新撰組(U)

 禁門の変のとき、敗れた長州兵を追って会津藩とともに新撰組がきて、この地で戦いました。このとき、真木和泉守は金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣というまことに時代がかった服装で現れます。新撰組と対峙し、16人の同志と共に切腹するのですが、どうしてこんな装束で現れたのでしょうか。

 これについて一つのエピソードをご紹介します。
大山崎町の東北、天王山の麓に小倉神社という式内社の古社があります。当時は小泉氏の世襲で、この時の神職は義盛氏でした。この人は幼いころから平田篤胤に師事して国学を修め、勤皇の志篤く常に京師に往来し志士と交わったとあります。
 元治元年六月二十六日、真木和泉守が長州から兵を率い山崎へ上陸したことを聞くと、早速息子の義秀を伴い宝寺の本陣を訪れその労をねぎらいました。その上で自分の住居も開放して志士の屯所として供与し、そして志士の行動が外部に漏れることを恐れて素性の知れない使用人には暇を出して、煮炊きは専ら妻が行い、さらには自身京都との連絡役まで引き受けます。

 真木らの軍が利あらずして京都より退却してくると、鮮血に染まった衣装が一見して落ち武者と分かることから、自らの神官の衣装を与えました。おそらくはこの衣装こそが真木和泉守の着ていた装束ではなかったでしょうか。

 間もなく押し寄せた会津軍に住居を焼き払われ、小泉義盛は一ヶ月以上も追っ手を逃れてあちこちさ迷う事となりました。それでもなんとか無事生き延び、明治十二年に病を得てなくなりました。七十四歳でした。

 以上は義秀氏の養嗣子の聞き書き「筆の雫」に書かれています。また桂小五郎らとの往復文書等も残っていたが、残念ながら明治四十五年に火事に会い消失したそうです。