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巨椋池(おぐらいけ)

 昭和の始めまで淀の東の一口(いもあらい)と宇治の間に大きな池「巨椋池」がありました。その池は昭和10年代に千拓され、現在は農地などになっています。

 地図は明治18年の大水害当時の池を示します。明治新政府は京都南部の水害防止対策として明治初年から木津川、宇治川、桂川の改修に取りかかり、淀で合流していた三川を何回もの洪水を経験しながら、試行錯誤を繰り返し、約60年余りかかって、京都盆地を出たところ男山の西で合流するように変更しました。この改修により池の水位が低下するなど流れがスムーズになりましたが、それまで遊水池の機能を果たしていた巨椋池は流入する川は殆どなく、水の滞留による悪水化が問題となり、干拓することになって姿を消しました。いまでは巨椋池という名前は高速道路のインター・チェンジにだけ残っています。

 この池は太古京都盆地が大きな湖であった名残りと言われていましたが、最近の遣跡や堆積物の研究から、縄文時代には大きな湖はなく川の流れる平地であり、それが今から約二千年前に土砂の流入により、川の出口がふさがれて湖ができたと考えられています。その原因は、古代大和や南山城の開発が進み、山の木が大規模に切られ山の荒廃が進み、土砂が流れ出したことによります。

            京都新聞「森浩一の京都学事始め」『巨椋池今昔』ゲスト・中川要之助同志杜大学助教授を参考にしました。
                          巨椋池地図