大山崎山荘の建設中に夏目漱石がやってきた。大正4年3月のことである。このとき加賀正太郎は漱石に山荘の 命名を
依頼、漱石は14の名前の候補を列挙した手紙を送るが正太郎はいずれも採用せず大山崎山荘と名付けるの である。
最初に建てられた建物は望楼と平屋の本館であるがこれは「白雲楼」と「悠々居」と 名付けられる 。
昭和になって2期工事が終わるとそれぞれ「栖霞楼(せいかろう)」と「霽景楼(せいけいろう)」に名 前を変える。これは平安京の豊楽殿にあった建物の名前 から採ったと思われるが、豊楽殿は宮 中での宴を行う施設であり、宴会好きの正太郎には 格好の名前と映ったのか。
山荘に差し掛かると最初に出会うのが、レンガ造り石貼りのトンネルである。これは「琅玕洞(ろうかんどう)」と名付けられている。琅玕というのは竹の美称であるが、緑色の貴石のこともいう。イタリアのナポリの沖合いにカプリ島があるが、そこにグロッタアッツェーラと呼ばれる洞窟がある。アンデルセンの自伝的小説「即興詩人」にも登場するこの洞窟を、森鴎外は「琅玕洞」と訳した。或いはこの名前が正太郎の印象に残っていたのかもしれない。
「レストハウス(旧車庫)」を過ぎて差し掛かった背の低い門は「流水門」とい う。ここにはかって上 の池から下の池へと地表を水が流れ、車はここでタイヤを洗い人は踏み石伝いに渡った。まさに ぴったりの名前である。そしてその先庭へ向かうところにあるのが行雲閣である。行雲流水としゃ れたのだろう。
行雲閣の傍の東屋風の建物は「橡の木茶屋」。この山荘では橡が多く使われている 。それに拠ったものか。またその反対側の山側にある茶室
風の建物は「彩月庵」である 。菩提寺である天王寺の住職が名付けたとか。その由来によるものか、正太郎の死後、千代子夫人はここに仏像を安置し持仏堂とした。
ちなみに安藤忠雄氏が設計した新館は“地中の宝石箱”と名付けられている。
注:太字の建物は国の登録有形文化財。
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